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2011年8月 7日 (日)

比島航空戦

昭和20年4月24日は搭乗員の比島玉砕認定日となっていますが、実際に地上戦で戦死された方々は例えば攻撃3の向井大尉のように3月10日とか別の日付になっています。4月24日戦死認定の方々は、マリアナ戦以降、主に19年11月から20年1月までの比島航空戦で戦死された方々で日付が不明となっている方々のようです。中には現存する戦闘詳報にて戦死した日付が記載されているのに、名簿などでは戦死日が4月24日になっている人もおられます。

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コメント

比島戦は戦死認定の会議がときどき開かれていたようで、クラーク戦の資料はみたことないですが、マニラ戦のだと、各部隊の動向と、目撃情報などをまとめた資料があったはずです。それを参考に帰還者からの戦没目撃情報がある人はその日、ない人は4月24日にまとめて戦死したと認定されたと思いました。4月24日の認定は結構ぎりぎりまで作業されていたと思われるので、特務士官の戦死認定などは拾うのが難しいです・・
戦闘詳報のは誰かわかりませんが、もしかしたら、ひょっこり基地に戻ってきた目撃情報があって、その後戦死と認定されたのかも。向井毅大尉はたしかに3月10日が戦死とされていますね。どこの地上戦で戦死したのかは、今はアメリカなんで資料みれないのでわかりませんが・・・

投稿: たく | 2011年10月12日 (水) 14時34分

返信遅くなり失礼しました。ご意見ありがとうございます。
書き込みを拝見し、そんな史料あったかな?と自分も過去の閲覧記録(ただ単に自分でつけている簡単な記録)を見てみたら、南西方面艦隊残務処理班が作った史料でそういうものがありますね。ただ、自分でも見たことになっているのですが内容についてまったく記憶がありませんでして・・・。
ミンダナオ方面は航空隊の戦闘詳報はありませんが、基地部隊(乙航空隊)である南菲空の戦闘詳報は1月まで現存していますし、それ以降も電報記録がありますから、どこの航空隊が何をしていたのかはほぼつかめると思っています。ただ、誰が、の部分が欠落しているところがありまして、どうにかならないのか、と思っています。
不思議なことに、19年11月~12月に戦った攻撃3、5、256といった部隊の搭乗員編制(戦死の記録も防研で閲覧できる旧厚生省史料に殆ど無い、特に下士官兵)はないのに、12月末にやってきた攻撃102、252はあったりします。

投稿: 川崎まなぶ | 2011年10月23日 (日) 00時31分

その史料の内容は、陸上戦のものなので、川崎さんにはたしかに興味ないものかもしれません。部隊の隊員の名前があるわけでもありませんしので。なのでもう一回みる必要はないと。4月24日戦死とされている方は搭乗員に限らず、クラーク戦で消息不明の方が全員該当してます(士官で知っているだけで448名になります)から、搭乗員の大部分も飛行機を失って包囲戦で全滅戦死したと認定されたんだと思います。おそらく飛行機でという方はごく一部なんじゃないでしょうか?手記などで実は戦死認定日以降も生きていたと判明している例はたまにみかけますけど、上記のように一応証言を集めた資料をもとに認定している様子なので、公式文書では最後の様子は、おそらく消息不明とかそういうことになっているんじゃないでしょうか?

投稿: たく | 2011年10月28日 (金) 08時57分

お返事遅れてすみません。長々と書きこもうとしていたところ、誤ってESCキー押して全部消えましたorz

これ以上は止めておけ、ということと受け取りまして、もうちょっとまとめられてから、改めて話題を作ります。その時、もしよろしければコメントなどいただければと思っております。

投稿: 川崎まなぶ | 2011年11月 6日 (日) 22時58分

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