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2012年3月の9件の記事

2012年3月24日 (土)

攻撃第107飛行隊

昭和19年3月4日、503空艦爆隊にて編成された。飛行隊長は武田少佐で彗星を装備していた。トラックに進出、サイパン、ソロンへ転進、主に哨戒などに従事している。

飛行隊長が朝枝大尉に交代後、6月に入りビアク攻防戦に出撃。12組が未帰還となる。サイパン敵上陸のため6月17日ヤップを2機が出撃、1機が未帰還となった。

さらにそのサイパンには整備員らを始め、搭乗員も10組ほどいたようだが、そのほとんどが地上戦で戦死している。

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2012年3月20日 (火)

攻撃第161飛行隊

昭和19年8月1日付で601空艦爆隊(といっても旧652空艦爆隊員)で編成された部隊であり、飛行隊長は伊吹少佐であった。母艦整備の関係上、601空の再建が653空、634空より後回しにされたため機材は集まらなかった。

10月1日時点でも彗星一二型4機、一一型9機ほどでしかなく、台湾沖航空戦には参加しなかった。しかし、3航戦出撃に伴い601空の他部隊と共に「瑞鶴」に派遣されて全機消耗する。

11月には彗星1機以外は九三中練6機、九〇機練2機しかなかったが、彗星三三型の補充を受けK攻撃部隊として比島へ進出させて解隊された。

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攻撃第105飛行隊

昭和19年3月4日501空艦爆隊(旧501空彗星隊と旧552空)を主体に編成された。飛行隊長は井上少佐だった。552空からの引き続き九九艦爆が主力となり、トラックからパラオへ転進した。

昭和19年3月30日パラオ空襲時、九九艦爆で出撃準備がなされたが出撃出来ず地上撃破される。ダバオへ後退する。

飛行隊長は矢板大尉となり、6月のマリアナ諸島攻防戦では、523空の彗星を空輸を支援したのみで作戦には参加できなかった。

比島で再建を続けるものの彗星一二型のトラブルにまともに受け実動機不足に悩まされることとになる。

10月の比島沖海戦では、零戦特攻の誘導隊として出撃。進出してきた701空、634空、攻撃5と共にレイテ方面攻撃にも参加している。

11月20日内地帰還が命じられ、再建が始められる。

昭和20年2月の敵機動部隊関東空襲の際には索敵攻撃に出撃。

3月には国分へ進出、18日からの九州沖航空戦では戦闘311の零戦の直掩も受けつつ敵機動部隊攻撃。攻撃103と共に敵空母撃破の戦果を挙げた。

終戦時、宇垣司令官に命じられ特攻出撃した。

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攻撃第103飛行隊

昭和19年4月1日に基地艦爆搭乗員の養成を担当していた佐伯空の改変部隊502空艦爆隊を元に作られた部隊であった。飛行隊長は引き続き江間大尉であった。

攻撃102と共に九九艦爆で北東方面作戦、対潜哨戒にあたっていた。10月1日付で502空が解隊され701空に編入。この時代になっても彗星の供給は間に合わず、九九艦爆が主力のままだった。

10月10日台湾沖航空戦開始、南下するも敵を見ず台湾に集結した。彗星への機種変更が通達されるも比島に進出が命じられる。10月22日マバラカットに進出、23日の総攻撃で出撃するものの悪天候で敵を見ず。再出撃となった24日は敵の邀撃を受け攻撃に失敗。再出撃するも敵艦隊を見なかった。

10月26日には体当たり部隊への編入が下令され、特攻隊として出撃していった。

11月15日に内地帰還が命じられ、攻撃3の残留隊員らを含めて再建される。

3月18日から21日までの九州沖航空戦で国分より出撃、攻撃105と共に空母撃破の戦果を挙げる飛行隊長の柏井大尉ら多くの搭乗員を失った。

さらに3月末までに消耗し、美保へ転進、再建されつつ終戦を迎えた。

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攻撃第102飛行隊

昭和19年4月1日、母艦搭乗員を練成していた築城空を改名した553空艦爆隊を改編成したもので飛行隊長は引き続き阿部平次郎少佐であった。北東方面の作戦、主に対潜哨戒をおこなっていたが、そのうちに502空、701空へ所属が代わり、飛行隊長も攻撃103分隊長の松井大尉が着任した。機種は10月1日時点でも彗星三三型がわずかにあるだけで主力は九九艦爆という状況だった。

台湾沖航空戦がはじまると攻撃103と共に南下、10月14日の総攻撃に九九艦爆隊が参加するも敵を見ず、16日も台湾より出撃したものの敵を見なかった。

結局、敵と交戦ないまま、10月22日比島へ進出する。当時、比島にあった海軍部隊で戦闘機以外の部隊が30機以上稼働機をもちかつ作戦行動可能だったのはこの攻撃102と103の九九艦爆隊だけであり、九九艦爆の能力的な問題は無視されて攻撃の主力として扱われる。本来、彗星への改変が予定されており、一部が訓練中という状況だったのだが。

10月23日の総攻撃は悪天候のため中止となり、翌24日攻撃102、103の九九艦爆38機が634空九九艦爆と共に出撃するも、敵戦闘機の邀撃を受け飛行隊長松井大尉らを失い攻撃できずに終わった。

さらに第2波として701空彗星5機が発進するも敵発見を報じることはなかった。さらに翌25日にかけて再出撃が行われたが、敵を見ること無く終わっている。

ここからが本当の苦難の始まりで、稼働艦爆全力で特攻、すなわち体当たり攻撃が命じられる。そのため、九九艦爆はニコルスへ移動、特攻隊として出撃していった。

11月初旬に国分に滞留していた彗星が進出、作戦に参加するも11月15日付で攻撃102、103は内地帰還となり、生き残った隊員らが帰還した。

内地へ帰還した攻撃102は、攻撃5の内地残留隊員を含め急速編成され、12月761空に編入、再度比島へ、一部がダバオまで進出した。そこで主に特攻作戦に従事するもたちまち消耗し、台湾へ帰還した。

台湾帰還後、765空の隷下となり、沖縄戦をこれまた特攻を主に作戦する(飛行隊長の宮崎大尉も特攻戦死)。昭和20年7月1日付で解隊となった。

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2012年3月19日 (月)

攻撃第5飛行隊

昭和19年7月10日、横須賀空艦爆隊を基幹として752空隷下に編成される。攻撃3、102、103、105といった他の部隊に比べ機材(彗星艦爆)は充実しており、訓練は香取基地で行いつつ、標的艦爆撃訓練も行なっていた(基地は大分)。事故もいくつかあり、ベテラン下士官を失っている。

10月10日から始まった台湾沖航空戦に実働機全力で出撃した(若手は香取に残留)。

<戦闘詳報より>

10月22日菲島基地へ台湾より転進の際菲島における基地配分と台湾に於いて打ち合わせたる基地配分異なりかつ多数飛行機が日没直前クラーク地区に殺到せるため空中混乱しまた地形判明せざるため予定外の基地に膠着するものなど生じ大混乱を来した
その結果、飛行機隊と輸送機にて進出せる整備員異なる基地に降着し24日0000に至るも連絡取れず、翌23日の攻撃に大支障を来たせり

集団攻撃不可能なる場合(攻撃兵力ならびに援護戦闘機兵力弱小にして正攻法不能の場合また天候不良にして大集団の行動困難なる場合)彗星の優速を活用せる単機奇襲攻撃法を計画訓練せるも練成中途にて作戦発動せられたり
10月13日
0930 51甲戦機密電令作第8号により彗星36機香取発進国分に進出
1232 1/3D発動機不調のため兵庫県武庫郡鳴尾村大山に激突大破搭乗員戦死
1428 1/12D排気ガスのため操縦付のぬとなり鹿児島県*良郡東国分村本戸山に激突帯は操縦員戦死
1430 彗星29機国分着
10月14日
0630 彗星11機沖縄を中継基地とし台湾東方敵機動部隊攻撃のため国分発
0830 大住郡沖永良部島西南方海面に突入搭乗員戦死
0900 彗星10機沖縄北飛行場着
1330 彗星6機沖縄北飛行場発進 視界不良のため友軍と集合不能
1425 宮古島より針路180度にて戦場に向かう
1450 天候不良のため2機ずつ3編隊に分離索敵
1518 地点フリ二カに空母2、戦艦1からなる敵機動部隊を発見
1,3/1D 1/2D,1/4Dは攻撃、空母1、改装空母1に各25番1を直撃せしむ
2/1D,3/2Dは敵を見ず
1740 2/1D,3/2D台東基地着
未帰還 /1D

1/1Dは彗星隊指揮官の突撃せよの電報を受信せるもその後の状況全く不明攻撃後C*1炎上するを認

10月15日
1300 彗星2機2,3/4D沖縄小禄飛行場発進、攻撃第3飛行隊分隊長指揮下に敵機動部隊攻撃に参加せるも彗星隊全機未帰還のため詳細不明
0630 彗星1機 1/2D高雄台南部隊(甲隊)前路索敵F12番線鷲*鼻より55度260浬右折60浬のため高雄基地発
0722 *鼻発針路55度
0735 発動機不調のため台東着

10月16日
1600 彗星2機沖縄南方敵増援機動部隊捜索のため小禄発進
2000 敵を見ず全機帰着
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台湾沖航空戦後、実働の彗星艦爆を最も保有しており、その後の比島沖海戦でも主力として活動した。

11月15日の編成替えで761空に変更。内地にあった隊員は攻撃102に転勤となり、かわりに比島へ進出してきた元機動部隊のK攻撃部隊を吸収。クラークその後ダバオにて少数機による出撃を繰り返していた。また、一部が特攻隊として出撃している。

昭和20年1月、攻撃3と共に内地へ帰還。予定通り新型機流星へ機種改変されたが、機材が集まらず沖縄戦への出撃はできなかった。

20年7月、米軍機動部隊が関東沖現れると、攻撃5は特攻作戦に参加した。

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2012年3月 4日 (日)

攻撃第3飛行隊

昭和19年3月15日541空隷下の部隊として新編成された。肝心の飛行機は第1線部隊の部隊ですら供給不足に陥る中、他の62航戦部隊同様に主戦力の彗星どころか九九艦爆すら僅かな数しか供給されなかった。

マリアナ方面の敗北を受け7月10日に行われた改変で541空は解隊され、762空の隷下に変更された。13期予備学生の配属など人員の数はそろったが、機材が問題だった。ようやく彗星の本格供給が始まるも故障が頻発しており、やはり訓練はすすまなかった。

10月10日付で762空がT攻撃部隊の中核となるため、攻撃3と銀河の攻撃405、攻撃406は新編成された763空の隷下となる。ちょうどこの日に沖縄空襲、台湾沖航空戦が開始されることになる。攻撃3は10月14日飛行隊長池内大尉以下20機が国分を発進、沖縄を中継(一部残留)して敵機動部隊攻撃に向かうが、攻撃前に戦闘機と空戦となり全機未帰還となった。翌15日沖縄に残留していた機が攻撃に発進してこれも全機未帰還となった。

残りの機は攻撃5、634空と共に台湾、クラークへ進出。10月24日、25日の攻撃に参加、それぞれ1機の未帰還機を出している。

10月下旬、分隊長の小川大尉の指揮する集団が701空の彗星と共にフィリピンへ進出。その後もいくつかの集団で進出が行われている。

11月15日の編成替えで攻撃3は761空隷下となり、内地に残留していた攻撃3の主に予備学生らの搭乗員は攻撃103へ転勤することとなり、その代わりに634空艦爆隊が攻撃3に編入されることになっていた。しかし、この日以降、同じ761空隷下となった攻撃5の記録が若干あるのみで攻撃3の記録はほとんど見つけられなくなっている。

昭和20年1月、攻撃3は攻撃5と共に内地へ引き上げとなり、再建がすすめられる。

252空隷下となる。

4月の沖縄戦では分隊長の指揮のもと一部が進出、特攻作戦に従事している。

その後、再建が進められるも出撃の機会無く終戦を迎えている。

※記憶を元に記述 間違っていたら失礼します。

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2012年3月 3日 (土)

攻撃第1飛行隊

昭和20年2月20日、601空艦爆隊を中心に131空艦爆隊を加え編成された部隊である。601空艦爆隊の飛行隊長であった村川大尉がそのまま攻撃1の飛行隊長になったが、当時硫黄島特攻作戦の最中であり、翌日21日に特攻戦死されてしまう。

その後、722空艦爆隊などから人員を補充し、国安大尉が飛行隊長となり沖縄作戦に参加するため国分へ進出するも4月7日国安大尉らも特攻戦死し消耗してしまう。

210空より飛行隊長野村大尉らを迎え、再度国分へ進出するも事故などもあり出撃できなかった。

20年7月、百里原に展開し待機していたところに敵機動部隊が東日本の沿岸へ来襲、木更津の攻撃5の流星隊と共に攻撃1も特攻出撃している。

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なぜ昭和20年4月24日なのか

昭和20年4月23日がクラーク方面海軍部隊が組織行動を断念し各部隊ごとに解散した日付らしいですね。その日じゃなくて翌日が行方不明者の戦死認定日になっているのは理由がおよくわかりませんが。。。

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