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2013年5月の9件の記事

2013年5月19日 (日)

海軍の零戦に対する信頼度

零戦神話とかなんとか言われることがあるかもですが、当の海軍首脳部が零戦についてどのように考えていたのか、あまり話題にならない気がします。対米開戦前の判断、進攻作戦である第1段作戦時、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦の空母戦、ガダルカナル攻防戦、ソロモン諸島攻防戦、対機動部隊邀撃戦、ラバウル防空戦、トラック、マリアナ、パラオ邀撃戦、マリアナ諸島防衛戦、台湾沖航空戦、比島沖海戦、比島防衛戦、関東防空戦、九州沖航空戦、そして沖縄戦とそれぞれどのような認識だったのか、現場の搭乗員らの意識と同じなのか、異なるのか、興味深いところです。

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2013年5月18日 (土)

偵察11の搭乗員

偵察11で開隊直後から終戦まで活躍しておられた方がいる。72期の府瀬川中尉(偵察、後に大尉)である。府瀬川中尉は飛行学生卒業後すぐに偵察11付となり、ベテランの操縦員と共に彩雲で19年10月のマリアナ偵察、台湾沖航空戦、11月のT部隊比島進出、20年3月の九州沖航空戦、沖縄戦と戦い抜いた、偵察11を代表する彩雲乗りであった。

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偵察第11飛行隊

 昭和19年7月10日、131空隷下で発足。編成基地は横須賀で、搭乗員も横空艦偵隊が主体であった。装備機は二式艦偵、百式司偵、彩雲であり、8月には木更津へ移動する。この部隊は夜間攻撃を主体とするT攻撃部隊に編入されることとなるが、米空母泊地奇襲作戦である丹作戦の直前偵察も担うこととなっており、そちらは偵察11の人員機材にて偵察12を編成し、担うこととなる。

9月下旬、10月上旬のマリアナ偵察が最初の作戦であった。10月10日付で762空に編入され台湾沖航空戦に参加、下旬の比島沖海戦には参加せず、11月のT攻撃部隊比島進出には参加している。

12月より偵察12と入れ替わり、香取へ進出し、硫黄島、トラックへ彩雲を派遣しマリアナ偵察を実施。2月には鹿屋へ移動となり、3月の九州沖航空戦でかなりの被害を出してしまう。

3月20日付で801空となるが、兵力の消耗が激しいため横空、210空からの補充の他に偵察4、偵察102の派遣隊、陸軍の百式司偵の協力の元、沖縄戦で連日索敵機を出撃させている。

5月には171空が新設され、偵察4と共に編入される。しかし、5月下旬には兵力の消耗が激しいため偵察4と交代し松山へ、さらには戸次に後退して終戦を迎えた。

台湾沖航空戦以降、彩雲を主用し、その結果もっとも多くの彩雲を失った(38組の未帰還)部隊である。

飛行隊長は時枝大尉(66、殉職)、菅原大尉(64)、金子少佐(60)、阿部少佐(62)であった。

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2013年5月11日 (土)

戦訓所見 海軍航空本部教育部 課長 その2

国力及び民力の相違
1.物資力著しく不足(身の程知らずの大戦争なり)
2.民族科学能力彼に比し低劣なり
(イ)彼においては一般日常使用されつつある事項(例えば短波)が我においては特別教育を施したる特殊者のみが可能
(ロ)敵は機械使用により数倍の戦力を発揮したるに反し我の作業はヨイトマケ式なり
(ハ)作戦に対する計画しえなく万事が当リゴースタン式にしてこの錯誤の累計が航空作戦を鈍重ならしめたる

クラーク基地電話の不備
機体発動機の整備は出来たるも爆弾搭載完成せずなど

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戦訓所見 海軍航空本部教育部 課長

昭和20年9月10日
海軍航空本部教育部 課長
戦訓所見
敗戦の原因
1.制空権の失墜
(イ)侵攻作戦の末敵大型機出現以来之が撃墜に手を焼き戦争中期以降B-29の大量出現ありそれ以来ほとんど策無き状況にして最近に至れり
原因 大型機撃墜対策考慮不足並びに立遅れ
(ロ)マリアナ作戦以来戦闘機戦不振にして終始圧倒せられる
原因
(1)日本戦闘機隊チームワークの不良(搭乗員の頭の切り替え及び無線整備の不良)
(2)搭乗員の練度の不適切(練度不足呼ばわりするのみで冗長を欠き戦訓に即したる急速練成をなさんとする着意に乏しく未熟のまま戦闘参加のやむなきに至る)
(3)戦闘機量の不足(消耗過大のため)
(ハ)対敵機動部隊作戦(特攻)の不振
我が最後の手たる特攻も沖縄作戦以降成功率ガタ落ちとなる
原因
敵は合理的なる対策をなしつつありしに我は大和魂のみにして科学性に乏し
(ニ)飛行機実働率低下

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偵察第4飛行隊

昭和19年7月10日付新編成され、141空に編入された。飛行隊長は66期の立川大尉で、当初の機材は二式艦偵で、主力は都城、一部を鈴鹿に派遣し訓練を行っていた。
昭和19年10月の台湾沖航空戦に偵察3と共に哨戒、触接を行い、主力はフィリピンへ進出。11月15日付の編成替にて、飛行隊長が66期の橋本大尉となり、彩雲で訓練をしていた偵察3の残留隊とK攻撃部隊の旧偵察61が偵察4に加わることとなり、増強されてはいたものの、未帰還機の他、空襲で機材を失うなど被害が蓄積し、1月5日の索敵にてフィリピンでの活動に終止符がうたれた。退却は多くの隊員らが徒歩でツゲガラオに移動、そこで空輸便にて帰還してきたが、飛行隊長の橋本大尉ら一部は台湾に先行し、台湾から索敵を続けていた。

昭和20年2月1日付、1343空に編入され松山にて再建が始められる(一時期、飛行隊長が67期の西山大尉となる)。3月18日松山より索敵に発進した彩雲が敵機動部隊を発見。翌19日索敵に向かった2番機が駆逐艦2隻を発見報告した後発動機不調となり引き返す途中、敵艦上機に撃墜されてしまった(地上から目撃報告により敵機へ体当たりしたものと判定された)。
4月に入ると苦戦する偵察11の増援のため偵察4の彩雲隊は102と共に派遣隊を進出させる。5月5日付、171空に編入された。6月には偵察11に代わり鹿屋へ進出、沖縄方面の索敵に従事しつつ終戦を迎えた。

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昭和19年10月24日の索敵機

彗星が攻撃した0940ごろ、1機の索敵機がサンベルナルジノ海峡付近で「敵部隊発見、空母の所在不明」を報じた。その後、「敵は輸送船十数隻、上空警戒機を配す」を通報した。輸送船が戦場のまっただ中でウロウロしていて、上空に戦闘機がいる、そんな不思議な報告を信じて、放置されていたが、この偵察機が基地に戻ると突如「0945 空母3、戦艦3~」に修正される。

2AF司令部がその電報を受け取ったのが1530ごろ、今まさに「大和」以下の第1遊撃部隊がサンベルナルジノ海峡へ向けて進撃中に、そのサンベルナルジノ海峡に敵艦隊が待ち受けている、その報に驚いた2AFは1548には「24日昼間攻撃するに至らず 薄暮夜間攻撃の予定」と返電、天山と銀河が発進していくのである。

この原因は索敵機の暗号組み換えミスであろう。ハタから見ると凡ミスにもみえるが、戦場とは情報が錯綜しやすいもので、それをいかに正解に近づいていくかが鍵になるのだろう。

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2013年5月 5日 (日)

偵察第3飛行隊

昭和19315日、141空の飛行隊として編成。機材が中々供給されず思うように訓練出来ず、マリアナ沖海戦に出撃することはなく、海戦後の710日の改編では、母艦部隊である601空艦偵隊を吸収。沖縄に半隊ほど進出させていたところ、1010日の沖縄空襲で敵機動部隊を発見することは出来ずその兵力を失った。鹿屋から発進した偵察3の彗星が敵機動部隊を発見している。台湾沖航空戦では索敵に活躍したが、フィリピンには進出せず都城で彩雲への機種改編を開始した。1115日の再編成でこれらの彩雲は偵察4に編入されて12月にフィリピンへ進出していった

1115日付で701空に編入、701空はフィリピンに展開しており帰還中であり、121日ごろより偵察3の主力は都城より木更津へ移動し701空ではなく752空司令の指揮下に入った。都城には一部のベテラン、多くの若手が残り、九〇機練、九三中練、九九艦爆を使用しての基礎訓練が続けられていた。12月5日より752空偵察12の彩雲2機を借用して訓練開始。しかし、彩雲は同じ基地にいる偵察12への供給が優先された結果、昭和2011日時点の在木更津偵察3の使用可能機は彩雲1機、99艦爆1機に過ぎなかった。それでも13日までには彩雲による基礎訓練は完了し、偵察12が台湾へ進出していくと偵察3への新機材割り当てが始まったが故障があまりにも多く困っていると23日に3航艦へ報告している。

そんな中、752空は偵察3、偵察102から三木大尉ら搭乗員6組、整備員6名をトラックへ進出させるように命令を受け、彩雲3機がトラックに進出し東カロリン空に編入された。偵察3自体は210日付で701空から801空に編入された。

215日早朝硫黄島付近に敵機動部隊発見、160715以降敵艦上機が関東各基地に現れた。偵察3の彩雲1機が索敵に向かい未帰還となっている。17日も彩雲1機が発進し敵巡洋艦を発見したが、敵戦闘機の銃撃で電信員が負傷し燃料タンクを撃ちぬかれたが何とか帰投できた。その後も索敵、特攻隊の支援に従事している。

しかし、偵察33月中旬に彩雲から陸攻隊に編成替えとなり彩雲の搭乗員は偵察102や偵察11に転出、325日付で部隊名が偵察707に名称変更されて偵察第3飛行隊そのものも消滅した。飛行隊長は発足から解隊まで武田大尉(65期)であった。

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2013年5月 3日 (金)

クラーク玉砕認定

昭和20年1月時点の攻撃5、攻撃256の戦時日誌には、すでに戦死されていた土屋飛曹長、大串飛曹長、堀少尉がそれぞれ所属していることになっています。つまり、その時点では戦死しているとの連絡が届いていないということで、堀少尉と土屋飛曹長は戦死日がクラーク玉砕認定日、大串飛曹長は12月21日(この日は攻撃256の作戦無し)となります。

他の部隊でも、戦闘312の行動調査を見ていると台湾沖航空戦でお名前があるものの、その後記録がなくなりクラーク玉砕認定となられている方もありました。おそらく台湾沖航空戦で戦死されていたのでしょう。

戦死日が昭和20年4月24日のクラーク玉砕認定となられている方は、いずれかの作戦で戦死されているものの記録がなく日付が確定できない方々だと思っています。

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