カテゴリー「航空隊・飛行隊の記録」の36件の記事

2015年2月 6日 (金)

252空ムンダの4日間

昭和17年12月に252空の零戦24機がムンダ飛行場に到着後、僅かな期間で実動機が1機になってしまった。そんな話は見たことがある方もいるでしょうけども、この252空は9月に編成された部隊であり、その搭乗員の5割だか6割だかは練習航空隊卒業して間もない方々で、それらの方々は252空で初めて零戦に乗った、ともいわれています。まあ、それがホントなのかちょっと調べてみました。

昭和17年12月23日0900、ソロモン諸島ムンダの飛行場に252空零戦22機が到着する。早速、1015にはF4F、SBDなど25機が来襲、塚本大尉ら15機が邀撃、撃退する。
しかし、24日からはB-17の夜間爆撃、早朝から戦爆連合がやってきて零戦8機で邀撃、2機が未帰還となり、その後の第2波の邀撃はまったく出来ず、滑走路は銃爆撃にさらされる。
25日は夜間爆撃があったものの、上空哨戒にあがった零戦隊は敵機と空戦にはならなかった。
12月26日、上空哨戒に出ていた零戦6機が着陸しはじめた時にP-39の襲撃があり、5機が炎上、10機が被弾。明日の実働機は激減し3機と報告される。
27日は零戦6機が上空哨戒を終えたところで戦爆連合が来襲。2機撃墜を報じた代わりに2機が未帰還、2機が不時着大破の被害を出し、「明日の実動機は1機」まで減少してしまった。
事ここに至っては撤収の他なくなり、28日ムンダにいた零戦のうち、3機がラバウルに帰った。搭乗員らを救出するために陸攻3機がムンダに派遣されるも、着陸中にP-39の襲撃をうけて1機が炎上。残りの搭乗員らの撤収は年を明けてからになっている。

邀撃戦の被害累積も問題だったが、それ以上に問題だったのがムンダの通信設備が不良で、発信はともかく受信に問題が有り、命令が受領できないと報告している。
また、ムンダは敵機が来襲してから邀撃機を発進させるのでは間に合わず、予め上空哨戒を出さねばならなず(しかも、26日、27日と着陸時を見計らったように襲撃される)、搭乗員らが疲弊させていった。

1回「津軽」の上空直衛にあたるために発進したはよかったが予定地点に「津軽」は見当たらず虚しく帰投している。せっかくガダルカナルの至近までやってきながら邀撃に追い回され、侵攻作戦に手がまわっていない。

と、走り書きしてみる。

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2013年7月21日 (日)

偵察第61飛行隊

昭和1981日に開隊し、601空の隷下となった。飛行隊長はマリアナ沖海戦にて601空偵察用天山部隊を率いていた深川少佐(64期海兵、偵察)であった。

601空は第1航空戦隊の空母「雲龍」「天城」「葛城」「信濃」に配乗する予定であったが、機材の主力は彗星であったが供給は滞り、新鋭機の彩雲は1機のみにとどまった。
昭和19年10月下旬の捷号作戦には空母「瑞鶴」に彗星と共に3組が派遣され、索敵に従事している。この戦いで空母4隻を失い母艦飛行機隊の存続は最小限となることから部隊そのものが
1115日付で解隊されてしまう。基幹搭乗員らはK攻撃部隊としてフィリピンへ進出、偵察4に編入されている。

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2013年6月 4日 (火)

偵察第12飛行隊

昭和19年10月10日付で偵察11の丹作戦(泊地攻撃作戦)参加兵力を基幹として編成された。すぐさま偵察11の応援で台湾沖航空戦に参加した。飛行隊長の高木大尉(64期)は、発令された時、攻撃501(銀河装備)分隊長として出撃直前で、そのまま転出せず銀河で出撃しようとしたため着任が遅れたという。偵察12の彩雲隊は偵察11も進出していなかったフィリピンまで進出、原隊に帰還してきたのは11月ごろになっていた。
 11月よりグアム、サイパン、ウルシー方面の偵察を担当することになり、11月9日、15日とグアム島偵察、さらにはトラックに進出しウルシー偵察も成功させた。。
11月27日サイパン飛行場に対し第1御楯隊の零戦の銃撃作戦の戦果確認のため彩発進、途中まで零戦隊を誘導し、1番機は零戦隊と2番機を分離後、戦果確認に向かったが零戦隊の攻撃と時間が合わずに確認できなかった。さらに途中で分離した2番機は未帰還になってしまう。12月5日にサイパン、テニアン偵察に向かった彩雲が未帰還となり、この方面での偵察12の偵察作戦は終わった。
昭和20年1月、偵察12は台湾に進出。現地にあった偵察4と共に既に上陸されていたフィリピンルソン島沖の哨戒が行われた。
なお、この時より彩雲、2式艦偵に加えて、紫電も索敵に参加している。結局3月24日までは台湾周辺からフィリピン方面を索敵していたが、3月24日以降沖縄方面への索敵に切り替えられた。その後も台湾で作戦を実施していた。

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2013年5月18日 (土)

偵察11の搭乗員

偵察11で開隊直後から終戦まで活躍しておられた方がいる。72期の府瀬川中尉(偵察、後に大尉)である。府瀬川中尉は飛行学生卒業後すぐに偵察11付となり、ベテランの操縦員と共に彩雲で19年10月のマリアナ偵察、台湾沖航空戦、11月のT部隊比島進出、20年3月の九州沖航空戦、沖縄戦と戦い抜いた、偵察11を代表する彩雲乗りであった。

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偵察第11飛行隊

 昭和19年7月10日、131空隷下で発足。編成基地は横須賀で、搭乗員も横空艦偵隊が主体であった。装備機は二式艦偵、百式司偵、彩雲であり、8月には木更津へ移動する。この部隊は夜間攻撃を主体とするT攻撃部隊に編入されることとなるが、米空母泊地奇襲作戦である丹作戦の直前偵察も担うこととなっており、そちらは偵察11の人員機材にて偵察12を編成し、担うこととなる。

9月下旬、10月上旬のマリアナ偵察が最初の作戦であった。10月10日付で762空に編入され台湾沖航空戦に参加、下旬の比島沖海戦には参加せず、11月のT攻撃部隊比島進出には参加している。

12月より偵察12と入れ替わり、香取へ進出し、硫黄島、トラックへ彩雲を派遣しマリアナ偵察を実施。2月には鹿屋へ移動となり、3月の九州沖航空戦でかなりの被害を出してしまう。

3月20日付で801空となるが、兵力の消耗が激しいため横空、210空からの補充の他に偵察4、偵察102の派遣隊、陸軍の百式司偵の協力の元、沖縄戦で連日索敵機を出撃させている。

5月には171空が新設され、偵察4と共に編入される。しかし、5月下旬には兵力の消耗が激しいため偵察4と交代し松山へ、さらには戸次に後退して終戦を迎えた。

台湾沖航空戦以降、彩雲を主用し、その結果もっとも多くの彩雲を失った(38組の未帰還)部隊である。

飛行隊長は時枝大尉(66、殉職)、菅原大尉(64)、金子少佐(60)、阿部少佐(62)であった。

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2013年5月11日 (土)

偵察第4飛行隊

昭和19年7月10日付新編成され、141空に編入された。飛行隊長は66期の立川大尉で、当初の機材は二式艦偵で、主力は都城、一部を鈴鹿に派遣し訓練を行っていた。
昭和19年10月の台湾沖航空戦に偵察3と共に哨戒、触接を行い、主力はフィリピンへ進出。11月15日付の編成替にて、飛行隊長が66期の橋本大尉となり、彩雲で訓練をしていた偵察3の残留隊とK攻撃部隊の旧偵察61が偵察4に加わることとなり、増強されてはいたものの、未帰還機の他、空襲で機材を失うなど被害が蓄積し、1月5日の索敵にてフィリピンでの活動に終止符がうたれた。退却は多くの隊員らが徒歩でツゲガラオに移動、そこで空輸便にて帰還してきたが、飛行隊長の橋本大尉ら一部は台湾に先行し、台湾から索敵を続けていた。

昭和20年2月1日付、1343空に編入され松山にて再建が始められる(一時期、飛行隊長が67期の西山大尉となる)。3月18日松山より索敵に発進した彩雲が敵機動部隊を発見。翌19日索敵に向かった2番機が駆逐艦2隻を発見報告した後発動機不調となり引き返す途中、敵艦上機に撃墜されてしまった(地上から目撃報告により敵機へ体当たりしたものと判定された)。
4月に入ると苦戦する偵察11の増援のため偵察4の彩雲隊は102と共に派遣隊を進出させる。5月5日付、171空に編入された。6月には偵察11に代わり鹿屋へ進出、沖縄方面の索敵に従事しつつ終戦を迎えた。

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2013年5月 5日 (日)

偵察第3飛行隊

昭和19315日、141空の飛行隊として編成。機材が中々供給されず思うように訓練出来ず、マリアナ沖海戦に出撃することはなく、海戦後の710日の改編では、母艦部隊である601空艦偵隊を吸収。沖縄に半隊ほど進出させていたところ、1010日の沖縄空襲で敵機動部隊を発見することは出来ずその兵力を失った。鹿屋から発進した偵察3の彗星が敵機動部隊を発見している。台湾沖航空戦では索敵に活躍したが、フィリピンには進出せず都城で彩雲への機種改編を開始した。1115日の再編成でこれらの彩雲は偵察4に編入されて12月にフィリピンへ進出していった

1115日付で701空に編入、701空はフィリピンに展開しており帰還中であり、121日ごろより偵察3の主力は都城より木更津へ移動し701空ではなく752空司令の指揮下に入った。都城には一部のベテラン、多くの若手が残り、九〇機練、九三中練、九九艦爆を使用しての基礎訓練が続けられていた。12月5日より752空偵察12の彩雲2機を借用して訓練開始。しかし、彩雲は同じ基地にいる偵察12への供給が優先された結果、昭和2011日時点の在木更津偵察3の使用可能機は彩雲1機、99艦爆1機に過ぎなかった。それでも13日までには彩雲による基礎訓練は完了し、偵察12が台湾へ進出していくと偵察3への新機材割り当てが始まったが故障があまりにも多く困っていると23日に3航艦へ報告している。

そんな中、752空は偵察3、偵察102から三木大尉ら搭乗員6組、整備員6名をトラックへ進出させるように命令を受け、彩雲3機がトラックに進出し東カロリン空に編入された。偵察3自体は210日付で701空から801空に編入された。

215日早朝硫黄島付近に敵機動部隊発見、160715以降敵艦上機が関東各基地に現れた。偵察3の彩雲1機が索敵に向かい未帰還となっている。17日も彩雲1機が発進し敵巡洋艦を発見したが、敵戦闘機の銃撃で電信員が負傷し燃料タンクを撃ちぬかれたが何とか帰投できた。その後も索敵、特攻隊の支援に従事している。

しかし、偵察33月中旬に彩雲から陸攻隊に編成替えとなり彩雲の搭乗員は偵察102や偵察11に転出、325日付で部隊名が偵察707に名称変更されて偵察第3飛行隊そのものも消滅した。飛行隊長は発足から解隊まで武田大尉(65期)であった。

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2013年4月28日 (日)

203空戦闘303の戦い(捷号作戦初期)

10月22日 零戦29機、零輸1機台中よりバムバム基地へ移動 着陸時3機大破
23日 ラモン湾東方機動部隊攻撃 零戦18機参加
24日 0710ラモン湾東方機動部隊攻撃 零戦16機参加 1010バンバン着
634空、653空協同戦果 グラマン10機うち不確実3 未帰還11機内二〇三空2機

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2013年4月27日 (土)

戦闘第162飛行隊

601空に新設された戦闘爆撃隊で飛行隊長は肥田大尉。戦闘161以上に飛行機供給がなかったようで、台湾沖航空戦、捷号作戦共に出撃機は0だった。11月15日に解隊。分隊長の青野大尉らは神武特攻隊として比島へ進出、金剛隊として出撃している。若手らは第2次K攻撃部隊の計画がなくなったためか他部隊へ転出となっている。

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戦闘第161飛行隊

昭和19年8月に601空艦戦隊を改編して誕生。飛行隊長は小林大尉で旧652空艦戦搭乗員を基幹として編成されていたが、人員は2個飛行隊分あったにもかかわらず、搭載予定母艦の作戦可能時期が20年以降であったため零戦の供給が20機ほどで訓練が進まず、中練など集めて若年者へ訓練をしている状況だった。台湾沖航空戦には出撃しなかったが、捷号作戦で小林大尉ら16機を「瑞鶴」へ派遣するも小林大尉ら12名を失った。11月15日に解隊。搭乗員らは601空の艦戦隊に残留、K攻撃部隊で比島、若年者は他の部隊へ転出している。

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