カテゴリー「マリアナ沖海戦以後」の61件の記事

2016年1月 3日 (日)

無謀な生産計画に翻弄された搭乗員養成計画

昭和18年、たてられた膨大な飛行機生産計画にあわせ、搭乗員も数を増大させ養成が進められることになる。九三中練や白菊といった練習機も多量生産されたものの、養成する搭乗員数を増加させることは燃料の問題もあり容易ではない。そのため、1人あたりの飛行時間を6割に減少させて対応することになる。これら搭乗員らが訓練時間がカットされてくるのはマリアナ沖海戦以降顕著になっている。
ところが、予定していた数の飛行機生産が実現できず、マリアナ沖海戦前後の飛行機消耗、燃料も不足がちで搭乗員はますます訓練、というか飛行時間を稼げなくなっていく。飛行機に頻繁に乗っている人、あまり乗る機会がない人の差が大きくなっていることが搭乗員の方々の飛行時間の記録や飛行記録を見ると断片的ではなるものの想像できる。
したがって、マリアナ沖海戦以降は飛行時間を計算することは難しいと思っています。

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2014年5月 5日 (月)

沖縄作戦時の大村空特攻

昭和20年3月27日、実用機特攻隊は4月5日より作戦開始を予定、特攻機は可能な限り最大の爆弾を搭載できるように準備するように指示される。

4月4日に松林中尉以下の特攻隊が鹿屋へ進出。6日に松原中尉、加藤候補生、田端上飛曹、河本飛長の小隊が1340発進、大森少尉の小隊、石橋少尉の小隊、遠藤少尉の小隊と発進していった。このうち、田端上飛曹は昭和18年末空母「龍鳳」に乗り組んでいた搭乗員で、大村空でも制空作戦に出撃していた記録がある。

4月14日、合原中尉ら第2陣が発進、予定していた19名のうち16名が発進するも、7機が引き返し、9機が突入した。合原中尉は1720空母突入を報じ、高橋候補生は1729敵戦闘機みゆ、他2機も敵戦闘機見ゆを報じている。なお、合原中尉は大村空にて制空隊として出撃した記録有り。
16日には0700林田飛曹長ら4機(うち1機引き返す)が発進、0926敵艦船に必中攻撃と突入電。加藤少尉、長谷部二飛曹の2機(他2機は発進せず)は1220発進するも1402敵戦闘機と交戦し、長谷部二飛曹は未帰還、加藤少尉は喜界島不時着。林田飛曹長は、空母「祥鳳」乗組の生き残りで、大村空でも制空隊で出撃した記録あり。

第3陣は磯貝中尉らで16名が15機で鹿屋へ進出してきたが、空襲が激しくなってきたので一旦大村空へ戻り待機となり、下旬再進出。
5月4日、0620までに発進、0848までに突入を報じている。
磯貝中尉、藤井候補生は沖縄近海の巡洋艦に命中したと見張り報告により判定されたい。第2波は2機とも引き返し、第3波鈴木少尉、茂木一飛曹突入、第4波林候補生、保科1飛曹は無線機無く状況不明、5波2機引き返し、6波太田1飛曹、高藤1飛曹無線機無しで状況不明。
加藤少尉、武2飛曹は中城湾、足利少尉、宮崎1飛曹は突入、1機引き返し。
5月11日
1小隊 牧野少尉、斉藤1飛曹、2小隊 川野上飛曹、もう1機不時着、3小隊 淡路1飛曹、もう1機引き返し。川野上飛曹は0810水上艦見ゆ0814に突入、牧野少尉は0832敵水上艦みゆ0833斉藤突入を報じている。

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2013年8月 4日 (日)

昭和19年10月26日、陸軍第4航空軍戦闘機隊

比島沖海戦が集結しつつあった昭和19年10月26日、在比島の陸軍第4航空軍戦闘機隊の実動機は下記のとおりだった。

4式戦闘機 21機(5個戦隊)

3式戦闘機 5機(2個戦隊)

1式戦闘機 14機(5個戦隊)

以上、バコロド。

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2013年7月21日 (日)

台湾沖航空戦後の彗星隊

台湾沖航空戦後の彗星隊について、機会があった時に調べたことがありますが、よくわかんなかったです。

10月14日にK3 20機、K5 11機、634空9機の彗星が中継の沖縄に向け発進していきましたが、その後のK3、K5、701空の彗星がどのように進出していったのか、断片的な情報しかなくよくわかりません。

15日~16日に大淵大尉らのK5、701空の彗星が進出していますが、K3の彗星は701空、634空機と共に10月下旬に比島へ向け進出していったようです。

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2013年5月11日 (土)

昭和19年10月24日の索敵機

彗星が攻撃した0940ごろ、1機の索敵機がサンベルナルジノ海峡付近で「敵部隊発見、空母の所在不明」を報じた。その後、「敵は輸送船十数隻、上空警戒機を配す」を通報した。輸送船が戦場のまっただ中でウロウロしていて、上空に戦闘機がいる、そんな不思議な報告を信じて、放置されていたが、この偵察機が基地に戻ると突如「0945 空母3、戦艦3~」に修正される。

2AF司令部がその電報を受け取ったのが1530ごろ、今まさに「大和」以下の第1遊撃部隊がサンベルナルジノ海峡へ向けて進撃中に、そのサンベルナルジノ海峡に敵艦隊が待ち受けている、その報に驚いた2AFは1548には「24日昼間攻撃するに至らず 薄暮夜間攻撃の予定」と返電、天山と銀河が発進していくのである。

この原因は索敵機の暗号組み換えミスであろう。ハタから見ると凡ミスにもみえるが、戦場とは情報が錯綜しやすいもので、それをいかに正解に近づいていくかが鍵になるのだろう。

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2013年5月 3日 (金)

クラーク玉砕認定

昭和20年1月時点の攻撃5、攻撃256の戦時日誌には、すでに戦死されていた土屋飛曹長、大串飛曹長、堀少尉がそれぞれ所属していることになっています。つまり、その時点では戦死しているとの連絡が届いていないということで、堀少尉と土屋飛曹長は戦死日がクラーク玉砕認定日、大串飛曹長は12月21日(この日は攻撃256の作戦無し)となります。

他の部隊でも、戦闘312の行動調査を見ていると台湾沖航空戦でお名前があるものの、その後記録がなくなりクラーク玉砕認定となられている方もありました。おそらく台湾沖航空戦で戦死されていたのでしょう。

戦死日が昭和20年4月24日のクラーク玉砕認定となられている方は、いずれかの作戦で戦死されているものの記録がなく日付が確定できない方々だと思っています。

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2013年3月30日 (土)

台湾沖航空戦

昭和19年10月12日台湾に敵機動部隊来襲、海軍では221空戦闘312の零戦、341空戦闘401の紫電、高雄空と台南空の零戦が邀撃戦を行なっています。このうち341空のみ記録が無くはっきりしていません。戦闘312にしても、被害状況合っているのかな?と思えますが。

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2013年3月24日 (日)

岩本さん

252空におられた岩本飛曹長は昭和19年10月の台湾で出撃の記録(撃墜記録なし)はあるものの比島での作戦記録は見当たりませんでした。

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2013年3月20日 (水)

昭和20年2月の関東上空

戦闘311の岩本少尉は114号機で2機撃墜(うち1機不確実)を報じていますね。

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2013年2月25日 (月)

終戦直前の攻撃第1飛行隊

終戦直前の攻撃第1飛行隊は搭乗員編制表が残っており、どのようなペアだったのかもわかるようになっています。

指揮小隊が2機、第1~6急襲隊各3小隊(4機)づつなので74組、さらに各急襲隊に予備員3~4名いる感じで、ほぼ偵察員もそろっています。1機のみ操縦員のみなのがありますが。

8月9日の出撃は渡辺大尉の第3急襲隊が、13日は平尾大尉の第6急襲隊、15日は斉藤大尉(いずれも71期)の第5急襲隊が出撃しています。出撃しなかった第1はベテランばかりの隊ですが、第2、第4は3,5,6急襲隊に比べても若い操縦員が多いようです。

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